農業体験記第1話「チューリップ」
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2022年4月27日
サイタサイタチューリップノハナガ〜、ナランダナランダアカシロキイロ〜♪ 樋口茂

今年も玄関先に赤、白、黄色のチューリップが、20本ほど咲きました。天気のいい日は、園児たちが近くの広場に行くとき、戻るとき、「ワ〜きれい〜、キャーキャー」と声を上げて通ります。今年も植えてよかったと感じるときです。

もう時期は終わりましたが、観光地のニュースにもなるように、チューリップは鑑賞するためものと思う方は多いと思います。しかし私の幼少の頃は、大根やスイカと同じ農作物でした。

信濃川が運んだ砂は海にもまれ、風に吹かれて日本海の新潟海岸に、延々と砂丘地帯を作りました。新潟マラソンにご参加の皆さんは、市街地を抜けてから海沿い出ると、左右、砂ばっかりのコースが続くのを覚えておられると思います。20km当たりで折り返しますが、砂丘地帯はまだまだ続いています。

その砂丘地帯は、その昔は、一面松林と「畑」でした。色んな畑作物が栽培された中に、チューリップもありました。小生は球根の植え付けをさせられた記憶は無いのですが、「花摘み作業」をしました。観光用のチューリップ畑ではありませんので、いつまでも咲かせていると、球根の栄養が取られるので、早々に花を摘み、球根を太らせるのだそうです。作付面積はわかりませんが、全ての花を摘むのですから、膨大な手間、時間がかかります。猫の手は借りられませんので、家族の子供も総動員されました。何にしても、当時は子供も「労働力」でした。

球根の収穫作業と乾燥作業は、ちょっと記憶にありません。しかしその後、「球根磨き」の仕事が続きます。これがまた大変な作業です。1球1球、1個1個、ぼろ布を使って磨きます。そうすると、実に美しく黒光りする球根になりました。今、園芸店に行くと、球根の外皮はガサガサのものが殆どですが、なぜかそんなものは当時、ありませんでした。

その次は、おやじの作業になります。板に、3〜4個の、サイズの違う穴が付いていました。そこに親父が1個1個球根を当てて「等級分け」をしていました。等級分けされた球根はそれぞれに梱包されて、一連の作業は終了です。この球根はその後どうなったのでしょう。聞いた記憶では、オランダに輸出され、食用に供されるとの話でした。

今はチューリップを栽培している農家はありません。あまりにも手間暇がかかりすぎるのもあったでしょうが、その後の急激な経済成長で、砂丘地帯はすっかり住宅地となり、畑も、美しかった松林も今は全て記憶の彼方に残るのみです。
 

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